無策が最高の策
聞いたことあるようなないような、な言葉だけど、先月身にしみてこれを学んだ。
たいていのことは、準備ができるし、準備に意味がある。けれども、人のコミュニケーションにおいては、準備をせず、その時自分が思ったこと・したいことをそのまま伝えていくのが一番な時もあるんだと思う。
無策じゃない、準備してる場合の例
「この話はわざわざ電話するほどのことではないな。今度そんな話になった時についでに話してみよう」
ということもあれば、
「わざわざ電話すると、こっちが重要視していることが伝わっちゃうから、敢えてさりげなく打診してみよう」
こんなことも普通にあることだろう*1。これくらいで良くできる状況であれば、みんなしてるだろうし、良い準備なんだと思う。けれど、本当に大事な場面で駆け引きや交渉にハマると、全く望んでいない状態を招くこともあるんじゃないか。その時に役立つかもしれないのが無策。
大事な相手とのコミュニケーションは無策が良いかもしれない
無策が最善って状況は、それなりにレアケースだと思う。けれども、今は、「大事な相手とのコミュニケーションでは、無策を基本にする」ことがベストなんじゃないかと思えてきてる。
無策のフレーム化
無理やりフレームにしてみると、
「大事な場面、大事な相手とのコミュニケーション」において、「相手の意志・自分の意志を大事にし、駆け引きも交渉術も使わずに、双方を尊重して落とし所を探すとき」に無策が役立つ(かもしれない)。
相手が準備してあれば、それは伝わってこっちも疑心暗鬼になったりする。こっちが準備してあれば、相手も疑いを持つかもしれない。結局、駆け引きや交渉術に落ちていく。これって、ゲーム理論のジレンマに似てる。
どちらかが疑ったり、出し抜いたりすると片方に不利益が生じる場合、互いに疑心暗鬼に陥る。けれども、双方の最善は「互いに信じあう状況」からしか生まれない。そんな時。
心を強く
双方が信用しあう、そんな状況は始めから生まれるわけじゃない。「互いに信用しあおうぜ」、そんな呼びかけも、結局は、「いつか出し抜かれるかも」と、さらなる駆け引きと疑心暗鬼を生む。問題は、人の心が弱いこと。出し抜かれる不安、何かを失う怖さ、そういう弱い心は、ついつい駆け引きやなんやに人の行動を駆り立てる。
「相手を信用する」のは、自分から始めるしかない。自分も相手も、そんなに心は強くない。けれども、弱い心のままではジレンマにハマる。双方に不利益が生じる。
強くあろうとすることはできる。その瞬間、大事な一瞬に、勇気を出すこと。言うべきを言い、するべきをする。弱い心に負けず、そういう一瞬をしっかり積み重ねていく。
事後になって、「あんなことしちゃって結果がダメになったらどうしよう。準備しといた方が良かったんじゃないか。」、そんな気持ちが出てくるかもしれないし、実際に結果もダメになっちゃうかもしれない。けれど、少なくとも、その「大事な一瞬」に「するべき」と思ったことをできた自分には自信を持っていいじゃないか。
結果はともかくとして、どんな結果であれ「自分がするべきと思ってしたことの結果」であれば、許容可能なんだと思う。なにより、その瞬間に、「双方のベストを思ってするべきと思ったこと」をしているなら、それで出てきた結果もベストなものになると信じるしかしょうがないじゃんか。
自分のためにも、心が強かった、という結果を残す
短期的に見て利益がないとしても、気になるのは、長期的に見た時の影響。
「交渉・駆け引きの術を用いて、双方にダメな結果をもたらした」と一度でも結果が出てしまえば、「その時の自分」に失望するし、「今後の自分」にも期待しづらくなる。
まとめると
準備しない、ありのまま伝える、ノーガード戦法*2。
最近、ほぼすべてのコミュニケーションがノーガード戦法になりつつあってちょっと不安。けどそれはそれで面白さもあるし勇気もいるししゃあないんだと思う。