世界観と科学観、自然界に対する科学の限界、それと、世界を受け入れる人それぞれのやり方

世界はあらゆるものが渾然一体となって、ぐちゃぐちゃなもの。


人は、そんな世界でも、理解し、解釈、説明したい、あるいは、起きたことについて納得できる理由がほしい、そんな欲求を持ってきた。Aをすると、Bが起きる、みたいにシンプルに掴まえたい。それも高確率な形のものを。これが知的好奇心であり、わかったつもりになりたいという欲求、あるいは、「理由のない不条理」をそのままでは飲み込めない人の性質で、そういう欲求に基づいた努力から、自然界の法則が見出され、作られる。これが科学。


科学は、世界を理解し、説明するためのフレームワークの一つ。ぐちゃぐちゃなものから高確率な相関・因果を見出すために、整理したり、切り分けたり、恣意的に選んで抜き出したりと、説明するためのあらゆる努力を尽くす。でもやっぱり実際の世界の姿は、ぐちゃぐちゃなままの複雑系風が吹けば桶屋が儲かる式の「確率が低いものをたくさん掛け算した結果」で溢れてる。それが自然界というnatureなんだろう。


ぐちゃぐちゃなひとかたまりだった世界は、科学によって、切り刻まれ、分類され、「人に理解できるもの」「納得できるもの」だけが抽出・精製される。そうでないものは、捨象され、無視される。そこに、科学の限界があり、科学なりの「自然界に対峙するときのスタンス」があるんだと思う。


そして、自分が見たい世界は、「科学の中の世界」ではないし、「自分が納得できる形の世界」ではない。ただ知りたいのは、「目の前に広がる世界」であり、不条理なものであれどんな形であれ、気づいたこと・知ったことをそのまま受け入れたい。それを前提として自分がやれることをやっていきたい。