データに意味はない

後輩に、データに意味はないよって話をした。自分も卒論ぐらいまでは「データに意味がある」と思ってたし、それでも普通の生活には何も不自由はなかった。実際多くの人はデータに意味があると思うだろう。

例えば、

日本で年間3万人自殺する人がいる。
これを多いと思う人が大半じゃなかろうか。人数の相場は、一家族で2-10人、学校一つで500人とかで、万人単位になると、でかいコンサートなり日本シリーズの試合を見に行かないと、一同に会することはない。こういうのが感覚的にわかってるから、3万人は「多い」。


日本で年に死ぬ人合計で100万人ぐらい、交通事故で死ぬ人が1万人ぐらい。こういう「比べる」数字があれば、3万人の意味もまた違った捉え方ができるだろう。

データに意味がないから論文を書く

感覚的に「背景を知ってたり、相場がわかる」から「意味があるように感じる」だけで、やっぱり数字そのものには意味がない。ましてや、なんたらかんたらのタンパク質の発現量やら相互作用やらの生データを聞かされても、素人は何もわからないし、専門でやってて背景をしってる人にしかわからない。たぶん、どんな数字もそう。


だから、「データそのものに意味を持たせるため」に論文で長々と文章を書く*1。論文に書くのは、ストーリー。

データに意味を持たせる

データに意味がないことを知る。これがストーリー作りの第一歩。これを知らないとストーリーは作れない。
意味が無いからこそ、意味を持たせるのに工夫する。これがストーリー作り。
意味をもたせる=ストーリーを作る=データをかっこよく見せる、そのために、引用をして「データがかっこ良く見える背景」を説明するし、対照サンプルを作って「データがイケメンに見える比較」をする。これが論文書きという営みだと思う。

研究者としては

卒論が初めての文章でのストーリー作りになる。出したデータそのものに意味があると勘違いしてる人が、ありあわせのデータで、訳のわからないままに、「ストーリーないじゃん」とか、「考察少なくない?」と言われながら文章を書く。イントロって何を書いたらいいの?教科書コピペでいいの?みたいに思い、考察って文章がたくさんあればいいのかな?と勘違いして進める。


あらまほしい卒論の作成過程は、ありあわせのデータで、データがかっこ良く見えるイントロを書いて、考察し、ストーリーはほぼ確実に後付けになる、というもの。


後付けなんだけど、ここをスタート地点に研究者としてのキャリアが始まって、だんだん後付けのストーリー作りがうまくなって、データがない状態でもストーリーが作れる=研究計画や研究費の申請書を作ることができるようになるんだと思う。この最終形は完先と呼んでもよいだろう。完先で、でっかくかっこよく研究ができたら、きっとすごく楽しい。


まあ自分は博士課程で研究者としてのキャリアを辞めるんだけど、言いたいのは、卒論生ぐらいで「データに意味がないこと」を知ってたら十分すごいよなってこと。

*1:データの意味を「伝える」のはストーリーを作れた後の問題