政治家は遊び人と考えるぐらいがいい

政治家を「国のためになることをする人」と考えるから納得がいかないし、やってることが理解できない。そもそもの「政治家とは何をする人か」をおいといて、「マスコミを通して見る政治家」を納得するには、「政治家は遊び人」と考えるぐらいがいいんじゃないか。

政治家はよくわからん

この前の不信任案騒動では発端から結末まですべてが釈然としなかった。
なぜこのタイミングで不信任案が出されるのか、なぜ小沢一郎が出てきて賛成しようとしてるのか、なぜ当日になって小沢グループとかいう人々が賛成に回って否決されたのか、どこをとっても「政治家は世の中のために仕事してる」と考えると納得はできない。人のためにしてるはずのポジションの割に整合性・一貫性がないように見えるからそれが気持ち悪い。*1

別に自分が納得することはどうでもいいんだけど、政治家の行動に釈然としない→憤慨する→文句の一つも言いたくなる、という流れは何か自分が勝手に損してる気がする。だから釈然としないのをやめたい。

政治家が何かのために行動してる、と考えるのをやめてみる

個別にはきっと賢い人たちなんだろうし。それなりに民草のために何かをしようというモチベーションもあるんだろう。でも、マスコミを通して見る政治家はランダムで無秩序な動きをしてるように見える。熱とかじゃないけど、ある意味エントロピーの増大、みたいなもので、総体として理解するのはやっぱ難しい。

理解が難しい理由の一つは、それぞれの政治家の行動原理がカオスなことなんじゃないか。権力欲の人もいれば、ただ上の人の言う通りにして保身に走る人、ただ「大臣」っていう肩書を経験しておきたいだけの人、純粋に人のためになろうとしてる人、などなど。首相という特殊なトップのポジションについては、正しい判断力があってもそれを実行する環境が整ってないのかなーと思う。逆に、しがらみとか保身したい欲求とかが生まれる「実行できない環境」がそろっているとも推測できる。知らんけど。

んで、こういう人たちがそれぞれに持ってる動機を理解しないと、発言・行動は理解できないよね。さらに、政治家が個別でなく集団で出すアウトプットについては、混沌の中から生まれてくる目的のよくわからんものだからそりゃ理解なんてできるはずがない。

と、つらつら考えてもやっぱりよくわからん。どうせわかるようにならんし、わかろうとする努力は必要ないんじゃないか。

政治家は遊び人、と考えればわかったような気になれる

遊び人は遊ぶのが仕事で、特に目的があったりするわけじゃない。保身とか権力欲もなくて、ただ人の関心を集められればそれでいい。その時々でしたいことをする。こう考えると、政治家(というマスコミを通して伝わってくる集団)は納得できる。余計な口出ししても変わるわけじゃないし、期待する方が間違ってると思える。

ドラクエでいえば、遊び人は賢者になれる。口笛をふくとかけっこう合ってるんじゃないか。賢者になったらいいなーってぐらいに考えとく。そうすれば、マスコミ経由で見る政治家がよくわからんのは納得できる。少なくとも自分が憤慨して感情的に損しなくて済む。

ついでにマスコミも

遊び人の宣伝マンと考える。宣伝マンも関心を集めるのが仕事。政治家と違うのは、自分じゃなく誰かを目立たせて、自分たちはその「目立たせたった!」という満足感の果実を得ること。

いつからか新聞やテレビが流す報道がすごく無神経に思えるようになった。選ぶトピックの偏りとか、微妙な言論の出し方とか、収入をスポンサーに依存してたり、その割に自分たちのやってることは公正な報道です、みたいなところが最近嫌でしょうがなくなってた。

マスコミ側からしたら、報道すべき真実とかないし、彼らが報道したのが真実になるわけだし。そんな人たちの集まりかもしれないから、「宣伝屋さん」ぐらいに考えておくと吉。

それでいいのか、とは思う

報道や政治に*2無関心だと、長い目で見て損するってことはあり得る。
震災対応もそうだけど、セオリー的に動くべきはずの人が動かないってのは、健全な「世のためになる政治活動」とは違うように見える。

でも、報道や政治の「理想と現実」は「人が合理的に動くはずの経済学の理論」と「実際の経済」の違いみたいなもんで、理屈を言ってもその通りにはならないものなのかもしれない。現実の中で楽しくやってくのが大事だよね、あとは、それを気にすべき立場にならなきゃ関係ないよね、ってことでそれでいいんだ。

*1:一つだけすっきりしたのは松木謙公の賛成ぐらいか。北海道選出だからちょっと親近感もある

*2:というか政治家に